SCROLL

聞き書き 小田垣博三さん<後編>

社屋の記録看板画像
2026.05.13

丹波篠山市「農業遺産 語り部事業」_黒豆卸店

食べていただいておいしかったと言われる、それが丹波黒になっていく。<後編>

小田垣会長

 

丹波篠山における黒大豆栽培の歴史、技術、そして地域に根ざした文化の継承を目的とする「農業遺産 語り部事業」では、長年にわたり黒大豆を育て、広めてきた方々の経験と知恵を記録し、未来へ伝えていきます。今回は、老舗の黒豆卸店「株式会社小田垣商店」名誉会長・小田垣博三さんに、一途に黒豆と共に歩んでこられた人生について、お話をうかがいました。

 

 

このページは後編です。前編はこちら。
聞き書き 小田垣博三さん<前編>

 

 

|黒豆卸店|「株式会社小田垣商店」名誉会長

小田垣博三(おだがきひろぞう)さん

昭和13(1938)年、篠山(現丹波篠山市)生まれ。兵庫県立兵庫農科大学(現・神戸大学農学部)卒業。生まれ育った篠山の地を一度もはなれることなく、家業の黒豆卸業を継承。黒豆が「おせち料理に使うだけのもの」だった時代から瓶詰めや加工品などの新たな展開を切り拓き、「丹波黒」の販路を全国へ拡張。昭和から令和にかけて黒豆の品質と文化を守り抜いてきた功績が認められ、令和元(2019)年には丹波篠山市より特別感謝状が授与された。

 

自分の商売をまじめに、一生懸命やってるだけで

真っ先に広めてくれた福岡の豆問屋さんが毎日毎日、注文の電話をくれるんです。「丹波の特大、丹波の飛切を○○袋送っといてちょうだい!」って。

丹波黒じゃない、丹波です。「丹波」言うたら、おばちゃんのイメージは黒豆。そんなこんなで丹波黒が広がったんやと思います。全然、「広めよう」なんてのはさらさらない。食べていただいておいしかったと言われる、それが丹波黒になっていくんですから。戦略は、ないです。自分の商売をまじめに、一生懸命やってるだけで。

飛切極上の画像
丹波黒の中でも特に大粒で高品質、小田垣商店独自の規格。さらに最上級のものは「飛切極上」として販売される。

ブランド化いうのは、おのずとなっていったもんやと思います

「丹波黒、おいしいよ」というのはやっぱり口コミでしょうね、広まっていったのは。今と違って、家庭の奥さん方は自分で炊かれましたもの。だんだん炊かなくなってきたんですけど、練炭火鉢か、時間かけてコツコツ炊いて、とにかく自分の炊いた豆がご自慢でした。近所で配りまくって、私の方にまで正月に送ってくれるんです。「私の炊いた豆、こんなんですよ。食べてみてちょうだい」って。あっちからもこっちからも、すごかったですよ。みなさん、丹波黒を炊いた自慢というか、炊き方が自慢で「食べてみてちょうだい」と言ってきはりますね。

自分ちの味、というくらい丹波黒のファンになってもらったら。ブランド化いうのは、おのずとなっていったもんやと思います。

 

「まずは、篠山を売ろうや」という誓い合い

私の名刺には、昭和36(1961)年から「デカンショのまち」「黒豆の本場」と記しています。もう、ずっとこれ。初めて段ボールを作ったのは、昭和40年の初めだったと思います。その当時から今日まで、郵便の封筒と段ボールには「丹波篠山からお届けしました」と全部に書いています。

商工会で仲間が集まっていろんな話をする中で、黒豆屋も料理屋もあるし、酒屋さんもあるし、まあいろんな業種あるんですけど、それぞれの店の商品を売る前に「とにかく、篠山を売ろう」と言ったんです。「まずは、丹波篠山を売ろうや」と誓い合ったんです。そうすれば、おのずと商品も売れるやろうしと。昭和42(1967)年からですよ。そこで仲間みんなでいちばん力を入れて取り組んだのが、デカンショ祭でした。

 

作柄報告は、見本として木のまま送って

全国のお得意先の問屋さん、メーカーさん、スーパーに毎年、豆の木の葉っぱだけ飛ばして、木のまま送って。「今の作柄(さくがら)はこんなんです」「今、これぐらい太りました。これぐらいサヤがついてます。今年の作柄は、こんな感じです。ご批判ください」いうて、作柄見本として報告書をつけて、10年以上送ってたんです。で、文章の最後に「ご覧いただいた後はサヤを取って、ゆがいて、召しあがってください」と書いていた。しまいに「おいしいな、これ商品にしぃや」という話になったんです。枝豆で売るようにと。

そらよろしいけど、まさか乾物の豆屋の小田垣が生の枝豆をやるわけにいかんから、「だれかに言うてみますわ」言うて。でも、あちこちで「そんなん、ちょっと無理やわ、うちでは」「とてもじゃないけど、枝豆なんてできひん」って断られた。で、「じゃあ、仕方ないから小田垣やれよ」と。

やれと言われたって、枝豆なんかかなわんわ?って言ってたら、当時篠山にあった市場が枝豆を仕入れて供給してくれるという話になって。「しゃあないな」言うたのは、昭和57(1982)年か。で、紹介してくれたのが、小多田(おただ)と般若寺(はんにゃじ)の生産組合。仕方なしに全国に向けて案内を出したのが、昭和59(1984)年でした。

作柄報告書の画像
毎年、作柄見本に添えていた作柄報告書の一例(1998年度版)

 

枝豆「黒さや」、2~3年は苦労しました

ところが、枝豆の概念いうたらグリーンで、3粒入ってて、鮮やかで綺麗なもんなんですけど…丹波黒なんて毛が生えてるし、茶色くなってるし、1粒だけのサヤが多いし、「こんなグロテスクなもん、枝豆と言えへんやろ」いうんで、名前を変えて「黒さや」という名前を登録しようと申請したんです。

で、「丹波の黒さや」で昭和59(1984)年の案内を出したんですけど、なかなか売れへん。なかなか受け入れてくれへん。返ってくるんですよ。「そう言わずに、食べてみてください」と何年か続いて、定着していったんですけど、最初はそんなもんです。もう返品だらけ。2~3年は苦労しました。

 

えだまめの画像
1粒だけのサヤが多い「丹波の黒さや」。

 

「黒豆の木は、太いのをつくらなあかん」

兵庫農科大学の助教授をされてた石田薫さんという人が、うちの栽培技術顧問で。豊岡市の日高の男ですけど、篠山の畑(はた)地区の和田の石田という家へ婿入りされていた方で。篠山に限らず、いろんな産地の栽培講習会とか生産者大会へ、講習をしにまわってくれたんです。

篠山産の黒豆が大きくなったのは、石田さんの功績が多分にあります。「小さい豆はどこででもできるんやから、大きな豆をつくらなあかん」ということをまず言うて。そのためには「密植したらあかん、反あたりの株数を減らして」と言うてました。

石田さんがずっと言ってたのは、「黒豆の木は、太いのをつくらなあかん」ということ。

当時は、1反に1600とか1800株入ってました。それを「1100株ぐらいに減らして、お日さんあてて、立派な木をつくって、太い木をつくって」と。今は機械対応になってしもうたから、そんな作り方は少ないですけど、根本にその技術は残ってる。丹波篠山のみなさんに知ってもらっています。

 

栽培技術指導ペーパー『まめだより』を発行

石田さんは平成5(1993)年から、その年の気候の傾向や対応策などを伝える『まめだより』いうのを発行してくれて。種まきの時期と生育途中と収穫前と、年に3回ぐらい、いやもっと多いかもわからん。200号ぐらいまで出してたんかな。農協さんにも送ったり、けっこうみなさんに参考にしてもらいました。

大学の先生なので植物生理を基本に語るもんやから、いくらかむずかしい部分はあったんですけど、今も丹波篠山にそれが生きている。例えば、さやがつかなくて、いつまでも木が青い、黄化しない原因は養分のいき場がないということなんやと、みなさんに理屈を説明してました、ずっと。

『まめだより』は丹波黒だけを扱うもんやから、200号ぐらいになったら書くことがなくなって。内容が繰り返しになってましたけど、石田さんは「復習や」と言いながらつくってました(笑)。石田さんが亡くなられた後しばらくは、北川喜代治(きよじ)さんが続けてくれたんです。北川さんなりのおもしろい文章で。

 

まめだより画像
丹波黒に関する栽培技術を伝えていた「まめだより」、200号くらい発行。

 

「手がち」で黒豆を作る「本物の会」を

平成12(2000)年に、「本物の会(本物の黒まめ作りの会)」いうのを作ったんです。

機械化が進んで、乾燥機で仕上げをして脱粒機で処理するなど手作業が少なくなってくると、特に料理屋さんからクレームが出るんです。皮が割れるから。脱粒機にちょっと当たったら、黒豆の皮は薄いですから割れてしまう。コンバインになんてかけたら、いっぺんにひどいもんに。きな粉にしか使われへん、というようなことになってしもうて。今のやり方ではあかんでって。

黒豆栽培に熱心な農家さんたちを集めて、ほんまの、昔ながらの手づくりで豆をつくろうと。葉落としせず、自然に葉が落ちるのを待ってから引き抜いて、「手がち」をして、天日干しして、手作業で豆をつくろうと。いちばん最初は、30人ぐらい集まったかな。

 

本ものの会ラベル画像
「本物の会」の証明ラベル。30kg入りの袋に添付する。

 

「手がち」いうたらね…はしごを横にしたような、脱粒(だつりゅう)するための「豆かち台」があるんです。そこへ黒豆の木をたたきつける。そしたら、はじくんです。すると、ショックが少ないから皮が割れない。手間かかるから全部はできひんけど、「3反作ったらそのうちの1反、5反作ったらそのうちの2反で、そんな豆をつくってよ」と呼びかけて、賛同してもろたんです。

*反(たん):日本の伝統的な面積単位、1反=約1,000㎡

当時も今も、「本物の会」に集まってくれる人はみんな、ほんまに黒豆づくりが好きっていうか、熱心で一生懸命。黒豆づくりの天狗(達人)みたいな人ばっかりやから。高齢化で集まってもらえる人がだんだん少なくなってしもうてるけど、いまだに続いているんです。「手がち」はできなくても、豆づくりの技術交換の座談会には参加するとか、そういう場になったりして。そんな「本物の会」にしても『まめだより』にしても、丹波黒の品質向上の一助になってきたんかなと思ってます。

 

豆かち台画像
サヤから豆を取り出すための「豆かち台」、黒豆の木をたたきつけて使う。

 

12月に休みがある会社になりました

まぁでも、私の会社も働き方改革のおかげで楽な時代になりました。12月に休みがある…考えられへんことです。昔は、12月にお風呂入って、晩ごはん食べて、ベッドで寝るなんてなかったですもん。

黒豆は、12月の20日までに作業を終えなんだらあかん仕事でしょ。12月に収穫して、集荷・選別して、同時に出荷して、お正月にはみなさんのお腹の中に入る「キワモン」ですから。夜中の1時になろうが、2時になろうが、とにかく今日の仕事はその日に済ませないと。12月のうち10日あまりは、事務所の机の上で仮眠してました。

*キワモン:際物(きわもの)、その時期だけの特別な商品や旬のもののこと。

黒豆は、これからもできるだけ永く、作り続けてほしいですね。生産量が増えれば、まだまだ広めていけるでしょうから。農業というのは、収穫できるのがよろこびです。まず採れないと、次に進んでいかないよね。

 

社屋の記録看板画像
社屋の増改築等の記録が刻まれた看板が、店舗の一角に飾られている。

 

*聞き書き…2025年10月20日・12月2日/(株)小田垣商店本社にて
*聞き手:二階堂薫(コピーライター)