
丹波篠山市「農業遺産 語り部事業」_黒豆卸店
食べていただいておいしかったと言われる、それが丹波黒になっていく。<前編>

丹波篠山における黒大豆栽培の歴史、技術、そして地域に根ざした文化の継承を目的とする「農業遺産 語り部事業」では、長年にわたり黒大豆を育て、広めてきた方々の経験と知恵を記録し、未来へ伝えていきます。今回は、老舗の黒豆卸店「株式会社小田垣商店」名誉会長・小田垣博三さんに、一途に黒豆と共に歩んでこられた人生について、お話をうかがいました。
|黒豆卸店|「株式会社小田垣商店」名誉会長
小田垣博三(おだがきひろぞう)さん
昭和13(1938)年、篠山(現丹波篠山市)生まれ。兵庫県立兵庫農科大学(現・神戸大学農学部)卒業。生まれ育った篠山の地を一度もはなれることなく、家業の黒豆卸業を継承。黒豆が「おせち料理に使うだけのもの」だった時代から瓶詰めや加工品などの新たな展開を切り拓き、「丹波黒」の販路を全国へ拡張。昭和から令和にかけて黒豆の品質と文化を守り抜いてきた功績が認められ、令和元(2019)年には丹波篠山市より特別感謝状が授与された。
運動場はいも畑、そんな小学校時代です
名前は小田垣博三、博士の博(はく)に数字の三(さん)です。生まれは昭和13年、86歳です。
通っていたのは、お城の下にある篠山小学校。今は1学年1組しかないけど、当時は5組あったんです。4組で入りきらへんもんやから、図書室をベニヤ板で半分に区切って、教室を増やして。我々1年生は200人おりました。50人が5組かもわからん。200人以上やな。1クラス50人の時代、1年生から6年生までそれぐらいおったんです。いわゆる疎開組が多かったですから。
運動場は、いも畑です。毎日さつまいも畑に出て、いもの収穫したり、いものつるを食べさせてもらったり。あるいは、近くに小学校の実習田があって、みんなそろってイナゴ採りです。佃煮屋に売るんですね。そんな小学校時代。
遊ぶのは、よう遊びましたよ。王地山(おうじやま)で、いわゆるターザンごっこです。夏休みの水泳は、プールなんてありませんから篠山川へ。当時、こども会がありましたから、例えば夏は、バスで古市(ふるいち)の当野(とうの)へホタル狩りに行ったり、園部(そのべ)のるり渓へキャンプに行ったり、そういう時代です。
小田垣はもともと釣り鐘師、鋳物屋さん
うちは290何年前に、兵庫県の但馬(たじま)から「釣り鐘師」として来とるんです。もともとは、鋳物(いもの)屋さん。
本篠山(バスターミナル)の、今の信号のちょっと手前に散髪屋があるんですけど。立町通りでその近辺だけが50年ほど…もっと短いかな、金屋町(かなやまち)という名前でね。いわゆる鋳物屋さんばっかりのまちというか、そんな地域でした。小田垣はその後、種屋をして、米屋もして。米屋で黒豆を広めていったんですね。米を売る時に、一緒に黒豆を連れて売ってますね。お米をつくってる人が、畦豆(あぜまめ)をつくってますから。
*畦豆:畔(あぜ、田んぼと田んぼの間に土を盛り上げて区切り、水が外へ漏れないようにしたもの。水はけがよく、日あたりもよい)を使って古くから自家消費などを目的に農家が育ててきた大豆や小豆などの豆。
黒豆は、おせち料理で食べるだけのものでした
黒豆との出会いは…あんまり記憶ないですね。じいさんがやってましたから、もちろん、身近にありましたけど。黒豆なんて、12月の短い期間だけのもんですもん、その当時は。12月に収穫して、12月の20日ぐらいには終わらんとあかん仕事。黒豆は、おせち料理として炊いて食べるだけのものでした。
当時は、農家のみなさんが持ってくる黒豆を集めてました。昭和40(1965)年ぐらいまでは、お米つくれ、お米つくれ、ほかのもん作ったらいかんという、お米の増産時代。黒豆なんて全部、畦豆です。転機は、減反政策が実施された昭和45(1970)年のことでした。
私はずっと豆、マメな豆屋です
私、篠山を離れたことないんです。親父に「度胸試しや。試験どこか受けてこい」言われて、大阪府立大学を受けに行きました。名前を書いたかどうか…白紙で出して、そっと帰ってきた。行くつもりあらへんから(笑)。高等学校出たら農科大学(兵庫県立兵庫農科大学、神戸大学農学部の前身)へ行くという風に決められてましたから。
種屋になるんだと思ったのは、中学校時代ですかね。高等学校入る時にはもう、農科大学入るというのは決められてましたから。東京行きたいとも、大阪行きたいともあんまり思わなかった。種屋をするんや、黒豆屋をするんやと言われてましたから、外へ出るつもりはさらさらなしで。86年間、出たことないです。もう一途に、一途に。親父は「頼むわな」とよぅ言ってました。
農科大学では、野菜、蔬菜(そさい)園芸を。専攻は、そら豆の退化です。そら豆を永く作り続けたら、大きな豆が小さくなる。それが「丹波黒(たんばぐろ。丹波・篠山地方が発祥の黒豆)と関連あるさかいな」と言われて。確かに、丹波黒もほかの品種と混植すると退化しますから、相通ずるところがあったんでしょう。私はずっと豆、マメな豆屋です。

12月の25日までに売り切っとかなあかん
豆は、当時は大した仕事じゃなかったんですよ、12月だけですから。春から夏に、黒豆に触ることもありませんもん。
この店の向こうに、本篠山というバスのターミナルがあったんです。地方事務所や町役場があったり、税務署もあった時代で、篠山には役所がたくさんありました。鳳鳴高校(兵庫県立篠山鳳鳴高等学校)がまちの中にありましたし。東からバスで来た大勢の人が立町(たつまち)を歩いて、役場行ったり、役所へ行ったり、学校へ行ったりするんです。
で、年の暮れは毎日、店先で豆撰り(まめより、規格外の豆を手作業で選別する工程)してますやん。正月の…うちは4日ぐらいから店を開けてたかな、5日かもわからない。5日になってもまだ店に黒豆の俵を積んでたら、「あ、今年は小田垣、損しよったな」と言われる。黒豆は正月過ぎたら、まるっきりただなんです。だれも使う人ないし、食べる人もあらへんし。ほんまに何の値打ちもないんです。だから、12月の25日までに売り切っとかなあかんのです。
昔は、規格外のもんは持っていく先がない
毎日毎日、豆撰りしますやん。店先で豆撰りしとるんですけど、くずができますやん。でも、そのくずを持っていくとこがない。豆の皮の割れたやつやら、小粒であったり、規格外のもんは持っていく先がないんです。
たまたま、同級生が牛をたくさん飼ってたもんやから、「すまんけど、牛の餌にして」と言うと「そりゃえぇで。うれしいわ」と言うてくれたんです。ところが、毎日毎日くず持っていくもんやから、もうこらえてくれっちゅうわけです。ゴミ捨ての代わりに持っていくんですけど、こらえてくれっちゅうわけですよ。「こんなに黒豆食べさせたら、牛がお腹をくだす」言われてね。
例えば、お豆腐にしたり、きな粉にしたり、色んなもんができる今の時代には考えられへんことですが、当時はほんま、何の値打ちもないもんです。ゴミで出したら、多くてゴミ屋さんが困るしね。昭和35~36年まではそうでしょうね。
関西の料理屋さんを中心に広がった
昭和30年代は、ほぼ関西だけ。料理屋さんを中心に広がっていきました。小さな単位で、あとは小売りですね、ほとんどが。
小売りの荷物は郵便局の小包で出す、段ボールのない時代です。空袋のきれいな厚紙に包んで。紐で荷造りして、それを積んだ台車を押して河原町の郵便局へ持っていくんですけど。舗装してない砂利道やから、途中で何回も何回も落として…そんな時代。
あるいは、国鉄(現JR)が客車の後ろに荷物を積んでくれた。先ほど言うた、本篠山の国鉄バスが篠山口まで運んでくれるんです。で、そっから料理屋さん用をいくらか積んで、二斗袋(約36リットル)を、1日2つか3つか4つか、客車便に積んで送った時代です。
昭和40年に初めて、瓶詰めを
煮豆以外のものがぽつぽつ出始めたのは、昭和40年に近い時代から。昭和40(1965)年に初めて、主に一寸蚕豆(いっすんそらまめ)を炊いている、大阪の瓶詰め屋さんに頼んで使ってもらったんです。加工用の黒豆の始まりですね。
次に、心斎橋の煮豆屋さんに頼みに行って、瓶詰めにしてくれたのが昭和41(1966)年。大阪でいちばん古い日本料理屋さんでも使ってもらえた、昭和43(1968)年かな。今ではたくさん使ってもらえるようになりましたけど、その当時はわずかな量でした。
それから、昭和45(1970)年までに、これではあかんわと思って「年中売ってほしい」と行った東京の築地でもなかなかすぐには扱ってくれず、いくらかずつ売ってくれた。
黒豆は、炊いて食べるだけのもんでほかに使うことはありません。あとは、正月の年豆(としまめ)があったかな。お三宝(お供え物をのせる台)に入れる白豆と黒豆、年豆としての使い道以外は、当時はありませんでした。要は、100%煮豆。

福岡の豆屋さんが「丹波黒、えぇらしいで」って
少し話はもどりますが、全国に広がった順番いうたら、いちばん最初は福岡です。どこで聞かれたのか知らんけども、福岡の豆屋さんが「丹波黒、えぇらしいで」って仕入れに突然来られたんです。それに呼応してくれたのが、博多にある百貨店。年末だけの量り売り、最も売れる場所でイベントとかやってくれて。それが広がりの最初です。
それから東京行ったんですかね。築地に行って、しばらくして東京の問屋さんに「アメ横で売れへんやろか」って言うたら、「アメ横?そんな高級品がアメ横で売れるか」と。それでも「まぁ、やってみるか」って。今は、小売りでは、アメ横が一番よぅ売れるんちゃいます?築地もさることながら。
築地の市場の大将から「小田垣よ、丹波黒がどうして売れるのか、知ってるか?」って言われて。「そりゃ粒大きいし、粉吹いてるし、皮破れへんし、まずはおいしいでしょ」と言うと「そらそうや。それは知ってる」と。「それもあるけどな、大きな理由は高いから売れるんやで」って言われた。高級品やから売れると。「せやから安物にしたらあかんで、高級品の位置づけにせぇ」という話でした。
粉ふきを「磨いてこんか」言われて、泣き泣き磨いた
福岡から東京へ行って、あちこち回ったんです。なんとか名古屋でも売ろうと。
大納言小豆は名古屋の和菓子屋さんに、わりあい早くから使ってもらってたんです。今も続いてて、たくさん使ってもらってるんですよ。でも、名古屋ではだれも丹波黒をなかなか買うてくれへん。当時は営業なんておりませんから、私か弟が行く。そんなんやったんですけど、買うてくれへん。
扱ってくれない理由は、まず「表面にカビが生えたように見えるやろ」って言うんです。黒豆は、ぶどうやりんごと一緒で、蝋(ろう)質の粉ふきなんですよね。「そんなこと言わず、それが特徴なんです」って言うと「磨いてこんか」言われて、泣き泣き…毎晩毎晩、麻袋に入れて磨くんです。
磨いてできた分を送ったら、「これなら売れるかもわからんで」言うて、売りかけてくれた。でも、とてもやないけど、やっとれん。それで、近くの工具店でモーターつけて、長い1本の棒に麻袋をぶら下げて振る機械を自分で作った。4から5升ずつ入れて、袋を3つも4つもぶらさげて。磨いて、送って…ようやく名古屋に入るようになったんです。それが3年も4年も続きました。
その後分かってくれて、売れるようになったんですけど。今、名古屋なんて、小売り屋さん大激戦です。軒並み、丹波黒を売ってますから。長い間かかりました。

丹波黒を広めてくれた恩人
ぐっと広まったのは、昭和42(1967)年に大手スーパーへ納めに行ってから。たまたま、大学の3年ほど上の先輩が勤めていて。頼みに行って、「ほんならやろうか」って言うてもろて、始まったんです。その頃です、小袋ができたのは。昭和45(1970)年には直取引になって、長い間続きました。丹波黒を広めてくれた恩人でしょうね。
それ以前に広めていただいた恩人は、大手の製薬会社。薬屋さんは、お医者さんをまわります。一升袋を何百という数買ってくれて、お医者さんの手みやげに配ってくれるんやね。暮れのあいさつに。今はそんなことしないようですけど。当時、みんなお医者さんには色んなもん届けてましたもんね。それから、広島の金庫屋さんが全国の代理店に配ってくださったり。春は何、夏は何、秋は何…と接待がある時代でしたから、暮れのお歳暮に黒豆を配ってくれて、評判が評判を呼んで広まったのも大きなきっかけです。
丹波黒が広まったもうひとつのきっかけは、父の小田垣源一郎が尽力した職業別電話帳による販路開拓。父は全国主要都市の職業別電話帳を集めて、乾物屋さんや豆屋さんを探し、秋になったら豆の見本を送って…新しい販売先を見つけては拡売していきました。
最初は、煮豆をやったらいかんと思った
加工品をしようとは思ってなかったんです、私。今はいっぱいありますよ、思いっきりたくさんありますけど。最初はね、「加工品をやるべし」と保健所へ届けを出したんです。煮豆をするべし、これからは加工品もやらなあかんなと思って。
ところが、なんぼ考えても、みんなお客さんです。神戸の大手食品メーカーさんもそうですけど、心斎橋の料亭も、みんなお客さん。いったんは保健所で許可もろたんですけど、小田垣は煮豆をやったらいかん、やめようって言って、やめたんです。やっぱり徹底して供給側に回ろうと何年か過ごしました。
「レシピつくってよ」と土井さんにお願いして
難波(なんば)に大阪球場があって、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)がいた時代。その球場の内野スタンドの下に土井勝(どいまさる)料理学校があったんですよ。その学校へ、生徒さん用に売りに行ったんです。当時、料理学校が大はやりで、生徒さんの多い時代ですからね。
その頃、昭和47(1972)年やと思うんですけど、土井勝さんがテレビに出演されるようになった時代です。当時、伝承料理研究家の奥村彪生(あやお)さんが土井勝料理学校の仕入れ担当で。たくさん買ってもらったんです。その時に「レシピつくってよ」と土井さんにお願いして、土井勝流のパンフレットをつくってもらったんです。
なんとか年中食べてもらうようにせんとあかん
昭和45(1970)年の転作についてです。昭和43(1968)年ぐらいかな、のちに農協の組合長をされた販売担当の課長さんが、「篠山で黒豆を何百町歩(ちょうぶ、1町歩:約1ヘクタール/約10,000㎡)もつくらんとあかんようになるんや」って。私は「そんな無茶な!」言うたんです。「正月過ぎたらただになる豆を、何百町歩もつくってどないすんねん」って言いましたけど。でも、「しゃあないがな、お国の政策や。他に作るものあるか」って。
*転作:水田で、大豆や麦など米以外の作物を栽培すること。ここでは、米の生産量が多くなって余り始めた時代に、国の方針で米の作付けを減らすよう求めた、いわゆる「減反政策」のこと。
それで、年中食べてもらうようにせんとあかんなというのが、神戸の大手食品メーカーへ行った始まりです。そんなすぐ違いますよ、昭和50(1975)年ぐらいになってからですね。足しげく行って、実際に取引が始まったのは昭和55(1980)年です。それまでは細々と。
とてもじゃないけど足らんですから、地域を広めるしかない
その神戸の大手食品メーカーの当時の社長さんが篠山へ来られて、うちの店にある黒豆を2升5合(約3.3から3.5kg)買うて帰っとってんです。私はいなかったけど、後で分かった。
※1升(しょう)=10合(ごう、乾燥黒豆:約1.2から1.3kg)、1斗(と)=10升
で、初めて自分で黒豆を炊かれたんでしょうね。それからあと「1斗くれ」とか「2斗くれ」とかね、試行錯誤されたんやと思うんです。「案外売れるなぁ」と言いかけはったんが、昭和52(1977)年か53年です。百貨店で、それこそ暮れだけ売られるんですけど。で、「やってみるかぁ!」って言われたのが昭和55(1980)年です。そんな量から始まって、今や、たくさん使ってもらってます。
ですから、篠山産ではもちろん足りませんし、兵庫県内産でも足りません。そこで、岡山へ走った。産地を広めていったんです。今、丹波篠山の生産量はせいぜい400トン。メーカー1社だけでもとてもじゃないけど足らんですから、地域を広めるしかない。
ですから、篠山産と、兵庫県の山崎産とか三木産、西脇産とか、あるいは岡山県産はそれぞれ使い道が違うんです。篠山産はほとんどが暮れの家庭用、料理屋さん用になるのかもわかりません。
昭和56年の大豊作があって初めて、東京へ
で、昭和56(1981)年という大豊作の年があるんです。篠山農協(現JA丹波ささやま)にもとにかく黒豆がたくさん集まって、まだ来る、まだ来る、まだ来る…って。みんな困ってしもうてね、小田垣も戸を閉めて買い止めしたんです。みんな売り切れる自信がないもんやから。その年に、篠山産ももちろんそうやし、京都産もそうやし、岡山の黒豆も、余っている品を全部買いました。それを機に取引が始まったところもあります。
東京のメーカーへ初めて出荷したのが、昭和56年。初めて篠山口から貨車に積んだのが。東京のメーカー向けでした。関東には煮豆メーカーさんが多いですからね。昭和56年の豊作があって初めて、東京のメーカーさんが使ってくれるようになったんです。
後編はこちら
聞き書き 小田垣博三さん<後編>
