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犠牲田と堀作

2021.03.26
黒大豆の歴史
Text by 丹波篠山市農業遺産推進協議会

丹波篠山地域は、内陸性気候のため降水量が少なく、しばしば水不足に悩まされてきました。そこで人々は話し合い、水を引き込まずに稲作をやめる「犠牲田」を設け、野菜などを栽培するようになりました。

 

水を通しにくい土壌の丹波篠山では、溝を掘って水はけを良くしたことから、「犠牲田」での畑作を「堀作(ほりさく)」と呼びました。さらに、畝を高くして粘土質の土壌を乾燥化させるなど、集落の人々がさまざまな工夫を重ね、ようやく畑作ができるようになったのです。

 

畑地化することで、土壌が肥えて豊かになることから、「堀作」は集落の全農地を5~10年で一周するよう計画され、水系単位でブロック化して実施。享保3年(1718)、垂水村では村の総石高168石に対して、約半分の88石を4年で「堀作」をする計画を立てました。「堀作」の順番は集落みんなで話し合って決定。昭和40~50年代(1965~1985頃)の土地改良事業が始まるまで「堀作」は続けられました。

 

江戸時代に、この「堀作」で黒大豆を栽培したことが、黒大豆栽培の起源といえます。そして、集落みんなで話し合い、助け合う「協働の風土」が育まれました。「堀作」から始まった黒大豆栽培と「協働の風土」は、今日まで脈々と受け継がれています。